アルパックニュースレター191号

特集「昭和の風景を訪ねて」
1970年 万国博覧会・21世紀の設計&アルパック

執筆者;名誉会長 三輪泰司

 去る4月17日、京都市保育園連盟・八瀬野外保育センターの運営委員会に続いて恒例の観桜会。センター設立は、1970年5月。日本万国博覧会の年です。45年の年月が経ちました。世代交替が進み、すっかり若返った委員の皆さんに、一席のスピーチの機会を頂きました。
 アルパックは、2年後、創業50年になります。「1970年」を軸に、次の世代へ伝えるべき歴史のダイジェストの、そのまたエッセンスを記しておきたいと思います。

疾風怒涛の時代

 「日本万国博覧会」については、公式記録があり、会場計画の技術的諸問題についてもまとめています。(註:「建築と社会」66年8月号)
 京大グループ(代表・西山夘三)が、万国博覧会協会から受託した会場計画の基礎調査を始めたのは、1965年11月17日です。その日、西山夫妻の銀婚を祝って、ご夫妻の媒酌で結婚した18家族が、南禅寺の何有荘で園遊会を催しました。前年9月11日、オランダで客死した絹谷祐規助教授を偲び、建設省から戻り、代わって着任した、上田篤助教授を迎えて、悲しみを超え、新たな団結と前進を誓う集まりでした。続いて近くの湖月荘でグループ結成会議が開かれました。
 アジアで初めての公式の国際博覧会です。テーマとなる基本理念「人類の進歩と調和」は決まっていましたが、会場計画に関して判っているのは、“1970年に、北大阪・千里丘陵で、万国博覧会を開く”、の3つだけでした。
 そもそも「万博とは何か」から始めて、年末年初を挟み3ヶ月で、ベースマップと膨大な報告書を仕上げ、66年1月20日に提出しました。それからマスタープラン・基本設計・実施設計、造成工事、パビリオン建設、展示、そして1970年3月14日開会へと、日本人は僅か5年でやり遂げてしまいました。


万国博・マスタープラン第2次案

 基礎調査を終えて、私たちは、マスタープランに取り掛かりました。まだ、プランニング・コンサルタントなる職能組織がない時代です。大阪・東京の建築事務所からピックアップ・チームを編成し、御堂ビルのワンフロアーに臨時事務所を開いたのは66年2月。連日の徹夜作業。私は西山先生をチーフとするコアスタッフ会議での調整・決定を受けて、テーマを表現する“お祭広場・環境リサイクル”などを具体化して、土地利用・交通動線から造成計画へ実現する作業チームの指揮を受け持ちました。5月23日、全体とモデル地区の模型から工費積算まで仕上げ、会場計画委員会の承認を受け、「前半西山・後半丹下」と言われていましたように、第2次案をもって丹下グループへ引き継ぎ、6月11日、西山グループは引揚げました。“Sturm und Drang”疾風怒涛とはこのことかなと思いました。


万国博・計画チームのマーク(久谷政樹)

用地取得前の会場予定地(白線内が万国博会場となった)
写真出典:日本万国博覧会と大阪市

万国博・第2次案全体模型

開発ブームと影

 1945年敗戦。「国敗れて山河あり」とはこのような姿かと思い知らされました。15年におよぶ戦争の果て、この国の暮らしと人の心は荒廃しきっていました。
 それから20年。目覚しい戦後復興を、日本人の勤勉さにありとするのは間違いではありませんが、忘れてならないのは朝鮮戦争です。第1次世界大戦の主戦場はヨーロッパで、始め日本は輸出入の途絶に見舞われましたが、直ぐに戦争景気に湧き、重化学工業が大成長。その影で物価高騰、低賃金で米騒動や労働争議が頻発。労働力が工業へ吸い上げられた農村は疲弊し、劣悪な労働条件が、庶民層の意識高揚を引き起こし。普通選挙法と治安維持法の抱き合わせ制定。大正という時代の光と影です。
 歴史は北東アジアで繰り返されました。1950年6月、極く近くで始まった朝鮮戦争による特需景気と冷戦体制強化、対して新たな意識高揚です。
 今度は重化学工業の間で矛盾が激化しました。引き金はエネルギー転換と公害。60年早々には、三井三池炭鉱の全山無期限スト。日米安保条約改定を巡る民主主義運動の高揚。東京山谷に続いて61年8月、大阪釜ヶ崎で大暴動。64年、東海道新幹線開業、東京オリンピックの一方で、四日市公害訴訟。アメリカでは、前年のワシントン大行進の結果、64年7月、公民権法制定。その一方で、ベトナム戦争は泥沼化し、65年2月、北爆開始。インドシナ半島諸国では万国博どころではありませんでした。
 1960年12月の「所得倍増計画」は、戦後復興からの脱却宣言のようですし、確かに万国博は、この国が高度経済成長を達成するスプリング・ボードの役割を果たしましたが、世界と日本はどのような時代相の中にあったかを理解しておくべきでしょう。


21世紀の設計・国土構造の概念

21世紀の設計と万国博

 1967年12月、政府が「明治百年記念事業」として「21世紀の日本に関する国土と国民生活の未来像の設計」の公募を発表しました。いわゆる“21世紀の設計”です。応募資格は各関係分野の専門家によって構成されるグループで、応募希望のグループは、翌68年2月15日までに応募申請に所定の附属書類を添えて内閣官房内閣審議室へ提出し、資格審査を受けることになっていました。
 3月15日、審査をパスした「関西グループ」の編制は、西山夘三教授を責任者とし、総括班12名、計画設計班12名、調査研究班51チーム207名。3月20日、受託機関として株式会社地域計画建築研究所は、内閣審議室と契約を結びました。「21世紀の設計」は、3ヶ年継続事業で、1970年10月31日、報告書提出。翌71年3月1日、審査結果が発表されました。4月23日、首相官邸で表彰式が開かれ、完了しました。
 募集要項にありますように、中間的な計画設計を68年9月末までに提出し“その全部又は一部が日本万国博覧会の政府館に展示される”ことになっていました。万国博の会期は、70年3月14日から9月13日までですから、完成した報告書提出の時点では、もう終わっているからです。報告書の著作権は応募者にありましたので、関西グループは、図版等の体裁を整えて、1972年12月25日、勁草書房から「21世紀の設計」全4巻として出版しました。


日本万国博覧会(写真出典:日本万国博覧会と大阪市

日本万国博覧会(写真出典:日本万国博覧会と大阪市

万博・21世紀の設計とアルパック

 時系列でみますと「アトリエ・アルパック」の設立は1967年2月3日。法人設立登記は、67年8月18日ですから、内閣審議室との契約には間に合っています。「21世紀の設計」関西グループで、私は総括班幹事ですから、代表して首相官邸での佐藤栄作首相主宰の表彰式に参列し、保利官房長官から賞状を受けた次第です。
 もう一つ、私は計画設計班の一員でした。計画設計班は、国民生活・国土・高密集積及び低密地域の4チームから成り、私と霜田稔は低密地域、浅田恵弘は高密集積地域を担当していました。
 もう一度、時系列で見ますと、1970年10月の「21世紀の設計」報告完成の時期は、アルパックが創業としている1967年2月3日から既に3年半経ています。その間、何をしていたのでしょう。

企業経営のベース

 「21世紀の設計」低密地域の計画設計の作業と併行して、一つは、創業間もない1967年6月28日、冒頭の八瀬野外保育センターへ発展する京都市保育研究集会での保育事業提案をしています。これは翌68年3月、京都市保育事業団設立。70年8月、八瀬野外保育センター発足と進み、11月には「自然とのふれあい」をテーマに、既存の小屋を改装して、ささやかな第1期「ひいらぎの家」が完成しました。
 もう一つは、隠岐の島の計画を始めています。「西郷町総合計画」は69年3月に終わりましたが、当時、町企画課長であった岡崎晃道さんはお寺さんで、退職後、自坊へ戻り住職を勤めておられました。私はその後、隠岐へ行ったことはありませんが、ずっと岡崎さんと文通を続け、本山へ来られた度に、京都でお会いして「隠岐」を語っていました。
 何故、このようなボランティアのような仕事をしたのでしょうか。またその一方で、どうして創業4年目の1970年には、年平均13.17人のスタッフで年収4,500万円、5年目の1971年には、17.92人で1億円を越える企業経営体になっていたのでしょうか。


21世紀の設計・農業地域・津山圏の設計

 西山先生と研究室の支援と継承です。まず、龍谷大学深草学舎の計画は、まだ“アトリエ”がなくて現場事務所で始めました。当時、西武化学工業と言っていた西洋環境開発(株)の洛西桂坂プロジェクトは、西山先生と同期の学術会議議員で、退職後同社の顧問格であった奥田東・元京大総長が、堤清二さんに推して下さった仕事です。
 創業したばかりの11月3日には、西山先生設計の徳島県郷土文化会館の設計を受託し、小さな“アトリエ”で、全員総がかりで、設計から積算まで、完成し、現場監理業務まで進めています。
 研究室から継承したのは、当時上田篤助教授担当の京都市久我・羽束師工業団地、絹谷祐規助教授担当の清水焼団地、三村浩史助教授担当の、後のファッション産業団地となる繊維産業団地があります。
 その他に万国博の警備・消防本部の設計も受けましたが、これらの仕事で培った技術と知見、そして人脈をベースに、オリジナルに開拓した仕事もあります。
 一つは、琵琶湖東部から北伊勢、播磨内陸へと続く市町村総合計画と広域計画で、67年12月の城崎温泉総合都市計画基本計画は、町民大会までもって、のちのちまでのまちづくり基本理念が打ち立てられました。二つ目は、国鉄吹田駅前に始まる市街地再開発事業の計画と設計です。合意形成を図る上でも応用できる「都市計画」が我々の基幹技術であることを認識しました。
 こうして計画・設計業務によって財政基盤を作り、子どもたちのため、離島や過疎地の暮らしのため、直ぐにはお金にならない奉仕に熱中したのです。それがアルパックのミッションであり、ただ食べて行くためだけであったら、アルパックなど作る必要はないと考えていたのです。仕事に熟達してくれば、素早くポイントを押さえ、効率がよくなります。
 隠岐では、島根県の農業試験場で、隠岐には「明治初年、牛馬一万」という記録を発見して“牛突き”の習俗が分り、京北で見た「混牧林」を事例にあげ、農協と森林組合を結んで牛飼いを提案しました。また、墓石の戒名から、ここは政治犯の流刑地であったこと、文物が残っていることを確かめ、役場の女子職員に民謡発掘運動を起こしてもらい、“誇り持とう”と社会科の副読本「立ち上がる隠岐」が作られました。調査や研究で、ウロウロしているようですが、当面の業務に使えなくても、次の仕事に役立ちます。「直接経費20%」でも不当利得ではないのです。前の仕事で「間接経費」にしていた“ウロウロ”して得た知見獲得の費用を投入しているのです。
 ぐるぐる回せ、です。一般的に言う“金は天下の廻りもの”です。だから、やみくもに奉仕活動をやっていたわけではありません。何か意味があるか見極めています。それ故に、それがまた発展・展開して行くのです。


21世紀の設計・低密地域の自治生活圏ネットワーク

低密地域・過疎地域

 隠岐の計画もその一つです。万博という陽の当たる場づくりをやってきて、隠岐を選んだのもワケがあります。  「21世紀の設計」の低密地域に選んだのは、日本海・瀬戸内海・太平洋、3つの海域と、隠岐諸島・中国山地・四国、3つの陸域を横断する日本列島でもユニークな地域です。そのために、計画や設計の間を盗んで、これらの地域を歩き回り、調べ回りました。前任事務所での、日立金属冶金研究所の計画で、島根県安来市に3ヶ月滞在して、中国山地や隠岐諸島の土地勘も得ていました。


21世紀の設計・隠岐の設計

 その後、74年の国土庁と3府県のマルチ・クライアント方式の「近畿日本海地域計画」や、77年の建設省から通産省まで繋がる「海洋スペース利用計画研究」では、3つの海域研究で学んだ、沿岸域の環境・生態や、海図の読み方までが役立ちました。 これだけではまだ「芯」がありません。実は「21世紀の設計」を貫き、万国博で展示して見せた、設計思想があります。「自治生活圏構想」です。


21世紀の設計・隠岐のイメージ

国土構想の研究

 万博会場計画の基礎調査開始は、1965年11月と言いましたが、その年の5月、研究室のチームは、東一条のしま旅館で合宿し、国土構想の研究を始めました。成果は基礎調査報告を出した後、「新建築」誌の4月号に「国土における生活空間の構想」と題して発表しました。その根幹が「自治生活圏」の思想で、「21世紀の設計」の設計思想の根幹でもあります。
 10世紀の延喜式では、この国は66国と2つの島で構成され、さらに300余の“郡”から成っていました。郡の境は河川の流域を基本に、大きさはほぼ20キロ圏。人間が歩いて往復一日の距離です。「自治生活圏構想」とは、住民による地域自治を基本に、人口と機能によるタイプでもって、都市部・農村部、全国に渡って構成するという考えです。
 下って、1997年10月アルパックは、京都市主催の国際コンペ「世界からの提案・京都の未来」に“環境圏”の概念を加えて「自治生活環境圏都市・京都」を応募し、審査に通っています。交通・通信の手段は変化しますが、人類の生物学的進化は万年単位です。人間が二足歩行によって体験的に認識でき、地域自治が保てる人口規模を基本として地域計画を構想する方法は、千年単位の未来へ通用する計画原理といえるでしょう。個人、チーム、或いは全社が、執拗に追及する理念と方法を持っていきたいです。


 

人材の構成と継承

 1966年12月26日の日誌に「西山先生と万博計画とアルパック経営について協議・西山宅」とあります。6月11日に会場計画第2次案を完成して、西山グループは引揚げました。7月1日には名称を決め、9月17日、創立メンバーの浅田・霜田・三輪に、研究室を代表して上田篤助教授が参加し、正式に創立を決定しました。「進々堂会議」です。名称・略称・シンボルカラー・ロゴ・事務所設営・オープニング日程を決定。かくて、67年2月3日・節分の日に「創立」となったのです。
 西山先生との協議は、第一、丹下先生の指揮下で、お祭広場等の作業に残るメンバーを確認すること、第二、正式の公募発表は1年後ですが政府の明治百年記念事業の情報をキャッチしており、受託機関として、アルパックの法人化を準備すること。第三、アルパックの経営のあり方でした。
 アルパックの経営とは、要するに“人間と資金”です。創立コアスタッフは、その前から研究を重ねていました。結果としてお分かりのように、生まれ育ちはまちまちで、ヒトクセある連中ですが、何かしらの繋がりを持っていて理念を共有し、すべて外の世界を見て“異文化体験”を持っています。
 そのために、以後の人事政策は、(1)京大ましてや建築に偏らない。(2)社会科学系・自然科学系にこだわらない。(3)外国人・女性を積極的に登用する。となったはずです。実際には?ですが。
 揺籃期の事務所は地の利から、京大に近いこと、貸ビルではなく、小さくとも自前の「資産」とすることにしました。企業経営体であって、仕事の領域はマルチプル、人間はワールドワイド。このようなややこしい組織を運営するには、どうしたらよいか。学者で研究者であって、町工場の生まれで、職人気質に徹して経営では失敗したお父さんを見て育ち、没後に弟子たちが出版した小説「安治川物語」を書かれた西山先生ならではの伝承を受けて幸せでした。
 協議を終えて、西山ファミリーの1日遅れのクリスマス会に加わっていました。
 自然の法則と、地縁・血縁から始まる人類社会の潮流に逆らってはうまくゆきません。アルパックが創業以来、家族ぐるみで、故郷に根差してきた精神は伝えていきたいです。
 今回は、1970年、万国博45年の周年を記念して、ほんのエッセンスでしたが、伝承を試みました。次は、何を記念しましょう。
 今年、京都ロータリークラブ創立90周年、そして京都東ロータリークラブ創立60周年です。平澤興・奥田東・河野卓男という西山夘三とも縁の深い先達の伝承を語らねばならないでしょう。
 ロータリーの究極の目的は「世界理解と平和」です。ユネスコの構成団体でもあります。グローバルな展開を語らねばならないでしょう。勿論、アルパック50周年へホップ・ステップですので、経営政策の“深化”が中心に据えられるでしょう。
 先達から学んだこの種の職能集団を運営して行くために、そのリーダーが、絶対に守らねばならない原理・原則を、実践で深化させてきました。
 第一に、明確な概念規定。自らの業種・業態の特徴を認識し、性格規定を繰りかえし確認する事。第二に、代表者の責任。代表権者でなければできない責務を果たすことで求心力を獲得し、先頭に立ち、最も窮している者を助けること。第三に、会計に通じること。常に自らの財務解析を怠らず、着実に自己資産を充実すること。そして資金の調達に責任を持つこと。
 1967年5月、モントリオール万国博覧会へ行きました。会場計画を終えてから、本物を見るとは、おかしな話ですが。
 ニューヨークからワシントンD.C.へ回りました。バージニア州のアーリントン国立墓地でJ.F.ケネデイの墓に詣でました。周りを見ると、あちらこちらで、儀杖兵が星条旗を掛けた棺に敬礼して埋葬していました。この国は戦争をしているのだと実感しました。母親たちの悲しみがありました。


首相官邸で保利官房長官から賞状を受ける(写真右が三輪)

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2015年6月1日発行

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