アルパックニュースレター192号

特集「戦後70年・まちに残る戦争の記憶/記録を巡って」
伝承譜

執筆者;名誉会長 三輪泰司

 6月26日、「西陣空爆犠牲者追悼献花式」に参列しました。
 10年前、地元出水学区の住民が、上京区智恵光院通下長者町の辰巳公園の一角に「空爆被災を記録する碑」を建てました。公園は空爆の跡です。追悼献花式は、出水住民福祉連合協議会が主宰者に加わり、空爆の時刻―午前11時30分から催されました。新聞・テレビがたくさん取材に来ました。雨の中、報道によると160人もの方がお参りされました。
 「戦後70年」今、何が問われているのでしょうか。門川大作市長が式の挨拶で言われた「二度と戦争を起こさないと誓うことが、最高のお悔やみになると思う」がこの時、この地での答えであることは確かです。


「西陣空襲」から70年を迎え、爆弾の破片が添えられた石碑に 手を合わせる住民ら 出典:京都新聞(平成27年6月26日)

15年戦争と“ものごころ” ― 伝承と継承

 「戦後70年」と問題提起を受け、70年前、ここで何があったのか、その時と以後、自分は何をしてきたのか、何をなすべきなのか、そもそも「戦後」とは何なのか、たくさんの課題を頂きました。
 私は、1931年・昭和6年生まれの未年。この8月27日で満84歳になります。生まれて23日後の9月18日、柳条湖事件で、満州事変勃発。大東亜戦争即ち、第二次世界大戦が終わったのは、満15歳になる12日前。“ものごころ”が付くまで、いわゆる「15年戦争」とともに育ってきました。15年間、この国は戦争が日常的常態でした。ほんの1・2年の違いで生死が分かれる時代をくぐり抜けてきました。
 伝承・継承、英語では、succession、動詞では succeed ですが、伝える側を「伝承」、伝えられる側を「継承」とします。両方があって成り立ちます。
 今、私は主として伝える「伝承」側にいます。しかし、元は伝承を受ける「継承」側でした。自己中心の子供、幼稚な少年、世間知らずの若者でした。
 「伝承」の責務を果たすために、何を、どのように「継承」してきたのか、どのように“ものごころ”を付けてきたのかを押さえておかねばならないでしょう。
 戦後、大変革の一つに「家族制度」の解体があります。一族一家の親父が威張っていた、封建的な家父長制が、天皇を頂点とする国家主義・軍国主義の基礎であったとして、否定されました。
 しかし、人間社会は夫婦・親子・兄妹から始まる部族社会・血縁社会・地縁社会が基本であることはどの民族でも変わりありません。地縁社会の基礎であったコミュニティ=隣組まで、国家主義的支配に利用したことに誤りがあったのです。現代社会は、学縁・社縁、同好縁、さらに、バーチャル縁と拡がって忙しいですが、“ふるさと”が血縁・地縁のみなもとであることも変わりありません。
 「戦後70年」の機に、視座を“ふるさと”に据えて、「継承」から「伝承」へ、立場と責任の変化に応じた自分自身の行動を検証してみたいと思います。先ず、現実に体験したことからはじめましょう。

隣に爆弾が落ちた ― 未熟な継承者

 その日、70年前の昭和20年6月26日、京都には朝から空襲警報が発令され、自宅待機していました。私は満14歳10ヶ月。中学校の二年生になったばかりでした。出水学区の北主税町の家には、父が一人で暮らしていて、私は現場から直線距離で800メートルほど東の、中立学区仲之町の祖父の隠居に住んでいました。昼前、警報が解除されたので、表に出てみました。爆音がするので、ふと見上げると、北々東の雲の間から1機のB29が現れ、ものすごく大きく見えました。高度1,000メートルくらいでしょうか。胴体から黒いものをバラバラと吐き出しました。“ザーッ”とトタン屋根に砂を撒くような音。「バクダンや!」慌てて家に駆け込み、鉄カブトをかぶって縁の下にもぐり込みました。と同時にズズーンと地響き。家がグラグラと揺れ、壁土がバラバラと落ちてきました。てっきり隣に落ちたと思って表にとび出しました。西隣の家は無事に建っていました。西の方に白い煙が上がって、ふすまの切れ端やら、屋根のトントン葺きが降ってきました。急いで現場へ走って行きました。警察が縄張りをして近寄れませんでした。父は警防団の役員をしていて現場へ駆けつけていたはずですが、会っても何も話しませんでした。戦後、だいぶん経って、ボツボツと話しました。出水校の体育館にゴザが敷かれて、死体がずらりと並べられていた。男女の区別もつかなかった。手や足がちぎれ、はらわたがはみ出て、目も当てられなかった、と。6月30日に正親小学校で犠牲者の合同葬が行われたそうです。今回、京都新聞に当時の写真が掲載されていました。
 西陣空襲3日前の23日、沖縄では組織的な戦闘が終っていました。そんなことは、全く知りませんでした。6月13日、大阪では、深夜からの大空襲で、京都からも西南の空が真っ赤に染まり、翌日は太陽が黄色になり、焦げ臭い匂いに覆われました。数日すると大八車やリアカーに家財道具を積んで、京都へ逃れてくる避難民がいっぱいでした。8月14日まで続く大阪大空襲であることは、戦後に知ったのです。
 中学2年のミワくん、観察眼・記憶力に優れ、反射的な行動力もありますが、世の中で何が起こっているのか、全く分かっていませんでした。感覚の発達に対して意識は未発達で、調べることまでは到らず、記録もしていません。幼児や少年に、調査や記録を要求するのは無理で、親や先輩・教師が引き受けるべきです。子どもの絵や作文、成績書を残しておきましょう。
 「献花式」で、青少年期、4歳くらいも違うと、意識も行動も違っていた人物がおられたことを知りました。


山中油店/上京区

西陣の空襲で落ちた爆弾の破片(山中油店/上京区)

事実を調べ記録する ― 伝承のための真実探求

 磯崎幸典さんは、地元で社寺の瓦を主に扱っている瓦屋さんです。ご自身はその時、京都大学で働いていて爆撃を免れ、家族も無事でしたが、家は全壊しました。「空爆被災を記録する碑」は、磯崎さんが私費で造られ、住民福祉連合協議会が請願し、市会議員が応援して市の児童公園に建てることができました。10年前、2005年8月16日、時の桝本頼兼市長も参列されています。当時の新聞記事があります。
 磯崎幸典さんは、今年87歳で「もうこれが最後になるでしょうが」と前置きして「真実」を調べ、記録し、伝えることが大事だと話されました。記録に選んだ石碑は古来確かめられている方法です。
 直後に調べた爆弾の落下ポイントを、街路図に○で示し、警察記録によって、死傷者は、即死43人、重傷13人、軽傷53人、計109人、被害家屋は、全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸、計292戸、罹災者850人と記されています。死者は重傷者1人が亡くなり44人であること、50キロ爆弾7発の内、1発は昌福寺の井戸に落ちて不発だという通説は誤りで、井戸の中で爆発したことを、破片を引揚げて実証されています。焼夷弾でなかったので火災は免れました。爆弾であったのは、目標は軍事施設か工場であったのが、エンジントラブルで予定外の投下であったと分かります。従って計画的な「空襲」ではなく「空爆」と表現しているのです。
 70年前、爆弾が落ちた位置、犠牲者の数、ただその事実を確かめる行為すら、憲兵隊や特高警察の目を憚らねばならず、ただ亡き隣人たちの数を記し、霊を慰めたいという願いを、いしぶみ-石碑の形にして実現するのに、60年も掛りました。
 1986年(昭和61年)3月2日、からすま京都ホテルで、小学校の同窓会「出水の会」創立総会が開かれました。出水尋常小学校・第56期・昭和13年4月入学生の学籍簿をお借りして、229名へ案内しました.。参加者は先生方を合わせ70名でした。
 この時、私は、自分の職能を活かそうと、住宅地図を貼り合わせ、小学生の時、仲間たちは何処に住んでいたかプロットし、出欠通知で記されていた住所と照合してみました。
 出水学区は、西陣地域の南端で、織物と関連の職人の町でしたから、男子では家の跡継ぎをしている者、女子は相手となる男性が戦没したため独身で通している人があって、元の家に住んでいるケースが多い中で、空白のエリアがありました。辰巳町、天秤丸町、坤高町、東白銀町あたり、空爆の跡です。この付近は、聚楽第の跡で、城郭や武将の屋敷に由来する地名が多いのです。法務局の登記簿、区役所の戸籍謄本を併せて追跡したら、罹災した家族と住居が分ったかもしれません。記録を繋ぎあわせる人々の記憶を組織するには、荷が重すぎて果たせませんでした。当時、出水小学校の生徒の大部分は、宮津へ集団疎開で行っており、空爆犠牲者には、警報発令で自宅にいた同期の中学校生徒が多かったと推測されます。
 情報伝承について一言。戦時中の「大本営発表」をウソの代名詞みたいに言いますが、情報を隠す、歪めるより、最も罪なのは、隠滅・破棄することです。「戦後」直後にどこからかの命令で、中学校の銃器から武道具まで、穴を掘って埋めました。(密かに面と篭手だけ救いだしました。面の“黒紐”で、中学2年にして剣道の有段者になっていたことが証明できます。)予想以上のスピードで東西から首都まで攻め込まれたドイツと違って、日本はポツダム宣言を受諾しますと言ってから、降伏文書調印・武装解除まで2週間以上ありました。書類・フイルム等の焼却は徹底していました。命令の「証拠」が出ないのは当然です。
 次代に、記録保存を「伝承」します。未来への指針であり、手間と費用は、貴重な資産となるのです。


「西陣空襲」の被害の様子を伝える写真
出典:京都新聞

地元住民が建立した西陣空襲の犠牲者を悼む石碑
出典:京都新聞

ヒロシマを知る ― まだ「戦後」ではなかった

 私が大学へ入ったのは、「戦後」5年。1950年(昭和25年)4月。満18歳7ヶ月でした。黄檗にある宇治分校の最初の学生でした。元陸軍の弾薬庫の跡です。
 初代分校主事は、平澤興先生で、「京都大学を全部、宇治へ移す」と意気軒昂たる演説をされました。ところがその6月、朝鮮戦争勃発。8月には「警察予備隊」後の自衛隊ができて、宇治キャンパスへ進駐し、真ん中に鉄条網を張り、カービン銃で、学生どもを東半分へ締め出しました。西半分には桜並木や池があったのに。平澤興先生の夢は、あえなく消えました。
 今、私が住んでいる桃山南学区は、宇治弾薬製造所木幡分工場の跡です。ここから完成した砲弾を、黄檗の弾薬庫へ運んでいました。因みに、弾薬製造所を設計したのは、西山夘三技術中尉でした。
 当時は「工学部」として入って1年後の3月、「学科配当試験」があって、希望する学科へ分れるという仕組みでした。吉田キャンパスの建築学教室で、いきなり遭遇したのが、破壊された広島の街でした。「綜合原爆展」です。
 理学部学生が原爆の原理を、医学部学生が原爆症を解説し、建築学生がパネルと模型の制作を担当したのです。後に阪大教授になられた岡田光正さん、京大助教授になられた絹谷祐規さんら諸先輩に模型の作り方を教わりました。
 1951年7月22日から、京都駅前の丸物百貨店(今のヨドバシカメラの所)で開催。万を越える市民が押し寄せ、以後各地で巡回展が持たれました。1951年7月と言えば「戦後」5年11ヶ月が経っています。しかし、まだ講和条約調印前です。「綜合原爆展」は、連合軍占領下の出来事だったのです。
 戦闘、即ち武力行使は、1945年8月14日、ポツダム宣言を受諾し、9月2日、東京湾のミズーリ艦上での降伏文書調印でもって終わりましたが、まだ「戦争」状態は続いていて、軍事占領の下にあったのです。連合国の日本占領は間接統治方式を採り、日本政府の法令の形をとっていますが、マッカーサー司令官の「命令」を実行していたのです。
 「戦闘」終結から、講和条約が発効し、命令による法令が廃止され、一応、主権を回復し、独立国になるまで、約6年8ヶ月間掛っています。1947年に貿易が許されましたが、主権回復までのおよそ5年間、日本製品にはすべて Made in Occupied Japan(占領下日本製) の表示が義務付けられていました。ブリキのオモチャにまで、この文字があって、日本人は、敗戦国民であることを思いしらされました。
 「戦後」とは何時から言うのでしょう。主権回復からですと、今年は「戦後63年」です。
 私たちは、核物理学、放射線医学の知見は人類共有の財産だと、純心に取り組みました。パネルやパノラマ模型で、分りやすく表現するスキルを身に付けることもできました。理学部・医学部に信頼しあえる友を得ました。彼らは後に京都大学の教授になり、京都南病院や桂病院の院長さんになりました。
 以来、広島へ行くたび、広島平和記念碑―原爆ドームをスケッチしています。1996年12月、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。
 破壊された街とはいえ、現場を見ずに模型を作ったことが、気になっていました。1952年3月、友人と二人で広島から長崎へ行きました。夜行列車で広島駅に着いて、プラットフォームから見ると、駅前にはバラックの闇市。その向うに原爆ドームが見えました。泊る所がないので宮島まで行き、翌日また夜行で長崎へ行きました。廃墟となった浦上天主堂のあたりは工場地帯で、グニャグニャになった鉄骨がそのままでした。中華街へ行くと、たいへんな活気。華僑のバイタリティが溢れていました。
 今井正監督の「どっこい生きている」という映画がありました。内容は憶えていませんが題名が気に入りました。庶民大衆はそんなものではないでしょうか。国の経済が破綻しても、庶民どもは、したたかに生きていました。お金がなくとも物々交換で。

ポツダムへ行った - 東西冷戦の現実

 ここで、ちょっと変った体験の話。
 1963年にポツダムへ行きました。偶然にも8月15日でした。ベルリンの西南、サンスーシ宮殿群の一つ、ツェツィーリェンホーフ宮殿は、その18年前、米英中3国首脳の「ポツダム会談」の舞台でした。会議場は当時のままに3国の旗を立てて保存されていました。今、サンスーシ宮殿群は、世界文化遺産になっています。
 52年前の当時、ここは東ドイツでした。ベルリンの壁が出来てちょうど2年目。日本では「壁」は東西を完全に遮断していたと理解されていますが、東から西へ、西から東へ、通勤していている人がいました。Sバーン(山手線のような環状線)、Uバーン(高速道路)は、ぐるぐる回っていて、パスポートが必要ですが、決まった駅で出入できます。17日、私たちはSバーンで、フリードリヒシュトラッセ駅から西ベルリンの動物園前駅へ抜けました。私たちとは、年齢順でいうと内田祥哉・川上玄・田村明・笹倉徹・山本和夫・三輪泰司の6名。すべて30歳代で、私が最年少、満32歳でした。
 7月11日、横浜を出港して、1ヶ月余、旧ソ連・東欧で過ごしています。日本建築学会と建設省が派遣した調査団で、目的は戦後日本の喫緊の課題であった住宅建設のため、当時最も進歩していたソ連のプレハブ技術の導入でした。結果はコズロフ方式と言った大量生産では、忽ち過剰生産になる、日本の国情にあった方法の研究開発がベターだと分かり、調査団は東ベルリンで解散。あとは、勝手にというわけで、以後6人で、或いは3人で、時には1人で、ヨーロッパで勉強しまくったのです。但し、外貨持ち出し制限に、為替レートは、1ドル=360円の時代。貧乏でした。
 当時、ソ連は宇宙開発でリードしていて、ちょうど初の女性宇宙飛行士・テレシコワさんが、コールサイン「ヤー・チャィカ:私はかもめ」と言って宇宙ドッキングに成功した直後でした。成功を見越して2枚続きの記念切手が発行され、チャィカという銘柄のウオッカが発売されていました。
 アメリカはまだプロペラ旅客機、ソ連はジェット機でした。シベリア上空でオーロラを見ました。都市づくりも東側に勢いがあり、東ベルリンはとても美しく安全で、西ベルリンへ抜けたとたん、乞食は多いし、スリにご注意というありさまでした。
 東側は国による分業体制で、自動車はチェコのシュコダという具合で一見合理的。権力集中は意志決定が早いが批判がない。大開発は環境破壊を招き、25年もすると制度ごと破綻しました。これをもって「自由」へ短絡するのでなく、「自然」をお勧めします。自然な人間が出せるように、抑圧や差別をしないことです。



紅の血は燃ゆる ― 「伝承」への変局点

 西陣空襲の約半年前、1944年(昭和19年)12月7日、満14歳4ヶ月の私は衝撃的な事件に逢いました。
 その年の4月、京都府立京都第三中学校(旧制中学校で5年制、場所は今の山城高校)へ入学しました。ところが、7月3日、上級の3・4・5年生600名が、通年学徒勤労動員で、愛知県の知多半島にある中島飛行機半田製作所へ出発してしまいました。偵察機や爆撃機の組立です。1・2年生はまだ労働力としては未熟だと農業動員で、巨椋干拓地での麦刈り、田植えです。学校は三菱重工の発動機工場になって、時々完成したエンジンの試運転をします。学校中が震えるものすごい騒音で、授業どころではありませんでした。
 12月8日は、開戦3周年・大詔奉戴日の式典で平野神社へ集合でした。藤森勝郎校長から悲痛な告知。前日7日、午後1時36分、突如襲った「東南海地震」で、京都三中生にも犠牲が出た。式は中止、直ちに帰校。12日、京都駅へ遺骨迎え、13日学校葬。
 戦後、1971年(昭和46年)12月、私たちの2年先輩になる、京大土木工学科教授になられた天野光三さん、俳優の田村高廣さんらのクラスが、読売新聞社から「紅の血は燃ゆる」と題する学徒勤労動員の記録を出版されました。「紅の・・・・・・」とは、学徒動員の歌の一節です。田村さんは「戦争を知らない人たちが、この貴重な記録によって、戦争とは何かを考え、われわれの世代との対話のきっかけになってほしい」とこの本に託されています。
 記録では、死者871名の内、96名が勤労学徒。半田高女生29名、豊橋高女生23名、京都三中生13名。震源からかなり距離があり、半田市街の被害は大きくなかったのに、その工場は、元紡績工場であったのを、飛行機を作るので、柱を抜き、秘密保持のため、出入り口に衝立を置いていて飛び出せなかったのだそうです。
 この記録の主な部分は、亡くなった落合規秀さんらの日記によっています。お母さんが、仏壇に置かれていたのです。涙の跡が滲みていました。京都三中生だけでなく、半田高女生・豊橋高女生らからも寄せられた膨大な資料・文章によっています。
 記録には、皇国の危機に、資材不足の中、一機でも多く、一刻でも早く前線へ飛行機を送ろうと、任務に邁進する姿が綴られています。学生の本分は学業です。「勉強こそがお国のためではないか」と悩みます。学業の遅れへの焦りも滲んでいますが、不満や、自分たちをこのような状況に追い込んだ指導者への批判は一言もありません。
 さすがに、終局近くには、相次ぐ敗報が伝わり、気持ちがすさみ、遂に若者の不安が爆発してあばれ、憲兵隊の制圧、捜査を受けています。
 天野先生に12月10日の出版前に頂き、一気に読みました。先輩たちの、友を想う気持ち、冷静な記述に深い感動を覚えました。
 なにより、ほんの1・2年の違いで、ものごとを真面目に考え、克明に記録している先輩がいたことを知りました。なんと自分は、思考停止状態で、幼稚な軍国少年だったのかと、情けなくなりました。時は「戦後」26年経っていて、満40歳。「継承」される側から「伝承」する側へ、いまや変局点にありと意識しました。実行し始めたのは、自らの「年譜」を記録することでした。友達に触発されて、戦後、1946年1月1日から、日記を書きはじめていたことが役立ちました。
 1971年は、記念すべき年になりました。「21世紀の設計」に参加し、事務局も勤め、4月23日に首相官邸で特別賞を頂いたこと。
 3月に、だん王保育園が完成し、4月27日、園長の信ヶ原良文先生に、清水寺の大西良慶管長に、お引き合わせ頂きました。姓名と面相を見て、大西管長が「お前さんを文字で表したらこうなる」と書いて頂いたのが、「青松立白石」です。良慶師・97歳の書です。6月25日、河野卓男さんの推薦で、京都経済同友会に入会したことと、11月12日、京都東ロータリークラブへ入会を許されたことが合わさって、人生が大きく変わりました。京都東ロータリークラブで、平澤興先生と再びのご縁を頂いたのですが、推薦者である前田敏男先生に、奥田東先生、岡本道夫先生と、京都大学の元・前・現総長が4人もおられました。
 製図・測量といったスキル・アップを基礎に、20・30歳代では、建築士・技術士といった資格取得によるキャリア・アップに努めましたが、これは建築学会・都市計画学会・建築家協会など、個人加入団体から経済団体そしてロータリークラブへと、ステイタス・アップが、きびすを接してやってくることが分かりました。
 「戦後」“ものごころ”付いてきた15歳から、25年にして「継承」が個人的レベルから、社会的レベルへ質的に変容してきたのです。「継承」はステイタスを伴う社会的責任と結びつくことで、“卒業”の域に達し、次の社会的責任を伴う「伝承」の側へ移って行くのです。そのために「伝承者」側の心構えが求められるのです。


「紅の血は燃ゆる」表紙

良慶師97歳の書「青松立白石」

人生の華 -「伝承」への心構え

 関西学研都市建設促進法公布は、1987年6月9日。「戦後42年」。名実ともに、ナショナル・プロジェクトに持ち上がりました。構想開始から丁度10年。10歳年取って、満56歳になっていました。やれやれ、これで一仕事終わったと、思っていた翌1988年6月8日、大仕事が現れました。
 その時、私は国際ロータリー第2650地区の国際青少年交換委員長でした。その日、京都ホテルにあった地区ガバナー事務所へ行きました。地区委員長は、ガバナーのオフィサーですから、月次報告をするわけです。小谷隆一ガバナーに報告を済ませたところ、「ミワ君、ここからはロータリーとは別のことで、お願いがある」ということです。小谷さんは、京都商工会議所・塚本幸一会頭の副会頭で、京都駅改築事業を担当されていました。
 京都駅改築事業は、国鉄(当時)と、地元府・市・会議所との共同事業で、会議所が地元側代表でした。平安建都1200年記念事業なので時間が迫ってくるのに、国鉄と地元の調整がつかず、にっちもさっちも行かなくて困っている。ここは一つプロにアドバイスを願いたいということです。
 この年の1月、同じく建都1200年記念の京都経済センター建設事業で、担当の堀場雅夫副頭取に、ゼネコンを集めてコンペをやったが、うまく行かない、どうしたらよいかと意見を求められました。お聞きすると、場所が決まっていない。それでは、呼ばれたゼネコンが困るでしょう。手順を踏んでやりなおしましょうとお応えしたところでした。経済界の皆さん、モノづくりはお得意ですが、地域プロジェクトは苦手のようです。地域プロジェクトの原理は、立地―ロケーションと、中身―コンテンツを合せることで、製造販売業の業態とは違っています。
 国土軸上にあり、過去と未来の中間―現代で、駅機能を文化で結ぶという「基本理念」で、両者のコンセンサスを得ることから始めました。
 記念事業として、国際コンペが決まっていました。都市計画的条件を踏まえた事業手法決定、事業主体構築から国際的コンペまでを仕切り、1997年9月11日、グランド・オープン。1999年7月、設計・監理を担当した北口広場竣工。11年掛かりました。
 社会的責任を負うとは、権利・義務をしっかり確認すること。受託業務は、受託者の代表者が責任を負うのですが、この場合、事業者から任命される国際コンペの「プロフェッショナル・アドバイザー」は個人です。その時、個人として権限を与えられている職務を数えると、ロータリーの地区委員長の他、経済同友会常任幹事、建築家協会理事、奈良市社会教育委員、京都市保育園連盟顧問、四条繁栄会顧問等々。
 時に満57歳。40・50歳代は、人生の華、まだ体力も従って気力もあります。職務遂行には耐えられる。問題は「時間」です。人間誰でも平等に一年の時間は8,760時間。個体の生理的再生産、即ち睡眠・食事等と、家庭の慶弔などを除くと、活動に使える時間は、最大限約5,000時間。本来の職業のために費やす時間、急にくる審議会委員等予備をとると、個人的職務に割けるのは、せいぜい年間2,000時間です。責任を持って与えられた職務権限を果たすには、取捨選択が必須です。どこか減らさねばなりません。
 1989年4月13日、JR京都駅改築国際的建築設計競技プロフェッショナル・アドバイザー就任受諾。6月6日、アルパック役員会で代表取締役社長退任。経営運営は金井萬造社長に任せ、会長職は「伝承」に属する社会的職務に重点を置くことになりました。前年、小谷さんに“打診”されてすぐ、7月6日、経済同友会の視察団参加の機に、1日早く出て、パリのUIA本部を訪問し「国際コンペ」を勉強しました。UIA(国際建築家連盟)の「国際建築・都市計画競技規準」で、自分の職務と権限を確認しました。

伸びる若い力 - 路地のデザイン

 子どもたちにはこのまちは、教室の続きでした。路地という路地は知り尽くしていました。行止まり、抜けられる、途中で二股になっているのは、パッチロージと名付けていました。
 “路地”には面白い知恵がいっぱいです。お地蔵さんがあって、行止まりと見えるのに、その両脇の板をポンと押すとスッと開いて、向こう側の路地に繋がっているのです。路地の入り口で火事が起っても避難できるのです。庶民どもは千年も前から、一見脆弱な木造長屋の町並みを安全な街にしてきました。
 ところが、向う側の路地が地上げされてマンションになって、抜けられなくなっていました。マンションを建てたらイカンというのではない。まちの知恵を受継ぎ、裏で繋がるようにすればよいではないか。それが出来る都市計画手法を発明することが、プロの役目ではないか。
 2000年4月、新編成の京都造形芸術大学で、環境デザイン学科長兼大学院専攻長に就任して最初に担当した大学院生に、高橋梢さんがいました。彼女の修士号申請作品の論文『「うらまち」に見られる秩序性と豊かな空間性についての考察』がすごいのです。裏路地を繋いでいって、住宅とギャラリーやレストランや、ブティックやらにしてしまっています。中京区の路地空間で表現して見せたのです。
 彼女は見ていないのですが、これはアムステルダム市立歴史博物館だ、と直感しました。それは、16世紀の孤児院の跡からはじまり、裏路地へ繋がり、道を跨いでどんどん伸びています。付け加えますと、彼女は、修士号を取得して後、福井工業大学教授の内村雄二さん(アルパックOB)に師事して工学博士号を取得。富山の土木コンサルタントの遠藤剛さん(アルパックOB)について土木技術も学び、福島へ戻り、故郷のために貢献しています。ここまでくると、路地遊び仲間たちに“ドヤ、面白いことしてるやろ”と胸をはれます。“伸びる若い力”を信じること、これが受けてきた「継承」を、次へと「伝承」する者の心得です。


高橋梢作:うらろじを繋ぐ建築模型

平和の誓い ― 世界へ拡がる

 晩秋の広島、はじめて平和記念館へロータリーの交換学生を連れて行った時、30分もすれば退屈して出てくるかと待ったのですが、2時間も経って出てきたら、目を真っ赤にしていました。夕食を済ませて、オーストラリアの学生代表が、立ちあがって上手になった日本語で、スピーチしました。「ロータリーの皆さん、ありがとうございます。後輩たちのために、このプログラムを続けて下さい」と。
 1990年秋に始めた第2650地区国際青少年交換委員会の「ヒロシマ・エキスカーション」は、25年になります。延べ500名以上が来ています、北半球のアメリカ、カナダ、ヨーロッパ、南半球のオーストラリア、ニュージーランド、ブラジル、南アフリカ等々、ふるさとへ「ヒロシマ」の感動を伝えています。
 奉仕の「伝承」が報われるとは、これなのです。


ヒロシマ・エキスカーションの交換学生