アルパックニュースレター163号

近況「8月」

執筆者;取締役相談役 三輪泰司(NPO平安京・代表理事)

 8月27日で満79歳になりました。8月・葉月は「平和祈念・推進月間」です。

核なき世界へ

 今年の広島・長崎の平和記念式典には、原爆投下国アメリカと核保有国である英仏の初参加があり、過去最多の国の代表が参列したそうです。アメリカのルース大使は式典後、「私たちは核兵器のない世界の実現を目指し、協力しなければならない」と声明を発表しました。
 近年、広島の平和記念資料館、長崎の平和公園・原爆記念館を訪問される国家元首級の賓客が増えているそうです。
 アメリカでは原爆投下正当論が多数であると言います。「謝れ」「正当だ」の議論はさておき、まず、核エネルギーを兵器に使うことはやめることからです。核兵器のない世界は、人類すべての願いです。そして、事実は日本にあるのです。

事実を見る

 1987年7月、小谷隆一ガバナー(京都商工会議所副頭取)の時から3年間、私は、国際ロータリー第2650地区の国際青少年交換委員長を勤めました。2年目の夏から、受入学生のためのエクスカーションを始めました。本当は平安建都1200年記念関連事業である京都駅ビル改築計画に掛っていて、猛烈に忙しかったのですが、何でもやり出したら徹底的に、のタチです。57歳で体力はありました。2泊3日で、夏は富士登山(これも強烈なインパクト)、そして冬は「ヒロシマ・ツアー」を計画しました。北半球と南半球では学期が違いますので、冬は1年間滞在して1月に帰るオーストラリア・ブラジルの学生達と、7月に来て半年になるアメリカ・ヨーロッパの学生達とのお別れ会も兼ねています。
 「ヒロシマ・ツアー」は、京都を出発して、倉敷のアイビー・スクエアに一泊。翌日広島へ。初めての時、平和記念資料館へ連れて行って、30分もすれば出てくるのではないかと出口で待っていました。2時間経っても出て来ません。やっと出てきた彼等・彼女達は、目を真っ赤に泣きはらし、ものも言いません。
 厳島神社へお参りした後、宮島でのパーティで、学生達が「このツアーは、後輩達のために、続けて下さい」と言いました。以来、地区委員会は、ヒロシマ・ツアーを続けて頂いているそうです。
 幽霊のように焼けただれた皮膚を垂らした女学生達。うつ伏せの背が焼けただれた中学生。つい1時間前には無邪気にはしゃいでいたでしょう。一瞬の核爆発は戦闘員も普通の市民も区別なし。
 交換学生達のために、日本はアメリカともっと親しくあるべきだと思います。軍事同盟ではなくて「日米平和友好条約」であってほしいのです。
 実は「ヒロシマ・ツアー」にはその前のワケがあるのです。

原爆ドーム

 1951年春、学科配当試験をパスし、喜び勇んで建築学科へ入っていきなり遭遇したのは、破壊された広島の街と原爆ドームでした。
 京大同学会が企画し、医学部・理学部・工学部学生が原爆の原理から原爆症や破壊力を解説し、建築学生が専らパノラマ模型や、パネルの制作を担当した「綜合原爆展」でした。大学は占領軍の圧力で表向き妨害の姿勢、実際は製図室の使用を黙認。NAU-K(新日本建築家集団京都支部)が作業しました。NAUは戦前戦後通じて最大の建築運動で、初代中央委員長は高山英華東大助教授、丹下健三さんらも会員でした。その後阪大教授になられた岡田光正さんら先輩の指導で、写真をたよりに作りました。20歳の夏でした。
 原爆展は、7月に丸物百貨店(京都市)で開かれました。翌年、幼なじみで経済学部の中村隆一君と広島へ行きました。プラット・ホームからみると駅前はバラックのヤミ市で、その向こうに原爆ドームが見えました。夜行で長崎へ行きました。浦上のあたりは工場地帯だったのでしょうか。戦後6年も経っているのに、グニャグニャになった鉄骨がまだそのままでした。
 その後、原爆展は各地を巡回展示し、散逸していましたが、先年京都南病院院長をされていた河合一良さんら「原爆展掘り起こしの会」の努力で、西山夘三先生撮影の記録写真などが見つかったそうです。以来、広島へ行く度、原爆ドームをスケッチしています。絵は2007年4月、呉・江田島から大津島の回天基地跡へ行った時のものです。絵葉書「日本の世界遺産」シリーズを作る時、収録するつもりです。