アルパックニュースレター182号

上野千鶴子氏との公開対談をしました

執筆者;竹井隆人/(政治学者、アルパック顧問、(株)都市ガバナンス研究所代表

 先日、拙著『デモクラシーを〈まちづくり〉から始めよう』の刊行を機に、フェミニストとして名高い上野千鶴子氏と公開対談を行いました(詳細は『週刊読書人』2013.10.18号に掲載)。これまでも彼女とのニアミスは幾度かあり、昨年は某大学の連続講座「コミュニティ再考」で前後して講師を務めました。また、小生の前著『集合住宅と日本人』は、彼女と建築学の大家たる鈴木成文氏との対談を収めた『家族を容れるハコの戦後と現在』の後継版として出版社から執筆依頼され、住宅建築に関して上野氏が手厳しく突いた批判をより精緻にまとめたものでした。
 いずれにしてもキチンとお目にかかるのは今回が初めてのことで、論客としても名高い彼女のとの対話には多少の不安もありながら、どういう内容になるのかとの期待をもって臨みました。
 テーマは新たな拙著の内容についての意見交換のはずでしたが、図らずも共同体(社会)の在り方を巡って互いに譲らぬ討論となりました。その論点の是非について、前から私がフェミニズムについて考えてきたことを〈まちづくり〉と絡めて、披瀝します。
 上野氏は拙著について、世を席捲する「仲良しコミュニティ」を批判する箇所に関しては「120%同意」するとしながらも、小生が提唱する「居住区デモクラシー」には強く反対されました。すなわち、居住区〈まち〉にいわば「私的政府」を創設し、それが自己的統治を行い、そこで人びとが政治を修行するのだとの小生のデモクラシー理論に対して“やり過ぎ”との非難を浴びせてきたのです。彼女の共同体に対する捉え方の根底にあるのはマッキーバー式のコミュニティとアソシエーションの二分法であり、これに従えば、自治体や国家、そして私の提唱する〈まち〉といった社会は、自然発生的で当然に人びとすべてを包摂するコミュニティでありますが、これを排して、もう一方の特定の目的のために人為的に組成される部分的なアソシエーションによる社会生成を促せば十分ではないか、との主張されたのです。
 しかし、私はこの二分法にそもそも誤りがあり、〈まち〉や国家等の政治的共同体はコミュニティに分類されるものの、同時に“共同生活”を目的とするアソシエーションとしての側面ももつはずと反論しました。本来、アソシエーションであるべき政治的共同体は、選挙の投票行為だけが政治と見なされることで、人びとが政治的なフリーライダーや引きこもりに陥り、それにより惨状を来しているのではないか、と診断するからです。よって、生活に不可欠なものの個人が単独では得られない施設やサービスについて、それを簡便かつ低廉に享受するための“共同生活”を目的とするアソシエーションを、維持していくための政治を人びとに課すことを目論むことを私は表明しました。これに対し、上野氏は著作『おひとり様の老後』を彷彿とさせるが如く、趣味や嗜好、あるいは気質や階層などが共通する者同士での「選択縁」を広げていけば十分という主張に終始されていましたが、この「選択縁」こそ、私の批判する「仲良しコミュニティ」と同質ではないか、と私には矛盾しか感じなかったのでした。
 そして、以下はこの対談を踏まえての私の感想ですが、私の主張(アソシエーション論)は、上野氏はじめフェミニズムが抑圧の対象として敵視してきた家族についても適用可能だとも思うのです。フェミニズム(女性解放思想)が、これまで女性が手にできなかった権利や自由を奪還し、その地位を向上させようとしてきたことに私は賛同します。
 しかし、そのための強制(義務)からの解放を言い立てるあまり、政治的義務(負荷)を逃れることに問題は潜んでいないでしょうか。私は家族にこそアソシエーションの側面があること、すなわち“共同生活”のみならず“生命の継続”という目的に沿って、家族のために自らが同意した役割をめいめいが果たしていくことに意義があり、それが共同体(アソシエーション)に対する人びとの政治的責務の原点になるようにも思うのです。